Je suis Charlie


















1月7日、パリのCharlie Hebdo社で起こったテロ。
今日犯人が銃撃されて、終焉。

この事件が起こってからフランスでは「表現の自由」を
守るため、一般市民の人々も広場に集結して、
その事の重大さと、暴力に屈しないというデモが各地で起こっていた。

私は、日本人で、フランス人ではない。

事件が起こった数時間後から、フェイスブックでは
「JE SUIS CHARLIE」をプロフィール画像とかシェアで広める動きが広まる。

はじめは、あまり意味がわからなかった。

テレビのニュースでは、一様に黒いスーツに身を包んだ
ジャーナリスト達が事の重大さを語っていた。

私はフランス人ではないから、フランス人が本当に感じていることは
正直わからない。

風刺画も、ひどいと思うこともあるし、全然ユーモアとして
理解できないことのほうが多い。

でも、私が好きなCanal+のGuignol infoでは、時の政治家たちが
時に目を覆いたくなるような抽象ともいえる、風刺で描かれ、
私はそれを笑うようになっている。

事件があった日、かのGuignolでは、大統領の人形が
「ぼくは、プライベートを笑われて、風貌をからかわれてもそれを受け入れる」
的なことをいっていた。

正直、いつものGuignolとかその後に続くPetiti Journalのいつもの
ひどいくらいの皮肉や風刺は、事件後キレがない。
更に、そのジャーナリストやプレゼンタターの表情が暗い。


私はフランス人ではないけど、
この表現をする人たちが受けた今回の衝撃は計り知れなくて、
いつもは、くだらないくらいな笑いを提供するのが仕事なのに、
恐怖とか動揺とか、不安とか悲しみで、
正直に、そのスタイルさえ、揺らぎそうな雰囲気にみえた。

番組のジングルでは、フランスの著名俳優女優ジャーナリストたちが
一様に、神妙にそして本気で「Je suis Charlie」といっている映像が流れる。

私はこれをみると、なんとも切なくて本当に悲しい気持ちになる。

今日、あるできごとで、やっぱり人の痛みとかって、
多少想像することはできても、実際感じることは絶対できないと思った。

俳優もミュージシャンもジャーナリストも表現をする人たちは、
その表現がもとで、こんな悲しい結末を迎えてしまった人たちに、
気持ちを添わせるといたたまれなくて、本当に悲しいんだと思った。

今のフランスの「JE SUIS CHARLIE」デモは、あるテレビ局では
常に番組の左上とかにこの文字を出してる。

人が集まって、この先にみんなが求めているものは何なんだろう。

風刺という、ある意味刺激的で、強烈な表現は、
もちろんたくさんの人を傷つけることもあるけど、
その報復に、銃を使うことはやっぱり現代社会において
あってはいけないことだと思う。

フランス人は、皮肉屋で、相手を批判することも厭わない。

それは文化であって、ちょっとやそっとで変わるものではないもの。

フランス人の今回の落ち込み方と衝撃の受け方が、
こんなに私が悲しくなる原因なのか、
もちろん、犠牲となってしまった方々とその近しい人のことを思うと、
言葉もないけど。

いいたいことをいえる社会がフランスで、
そのひとつの方法がCHARLIEHEBDOの風刺画で、
それは万人に受けるものでないとしても、
それによって傷ついたとしても、
ほかの方法でのレポンスができる人ならよかったのに。

フランス人全員がこの新聞をみていたわけではないし、
嫌いな人だってたくさんいるはずだけど、
それがこういう形で断絶されるのが、
フランス人のアイデンティティとして許せないことなんだろうなと
つたないところで想像してみる。

私は購読したこともない新聞だけど、
信念とポリシーを持った人々が続けていたジャーナリズム。
こんな事件は絶対二度と起きませんように。

なんとなく、Je suis Charlie というのは抵抗があったけど、
暴力への反対を称して、
やっぱり言ったほうがいいと思った。

Je suis Charlie.

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